薩長同盟成立の裏に、西郷の律儀な働き
西郷隆盛、その生涯と謎を追う ~薩長同盟の謎~
◆西郷の律儀な性格が薩長同盟成立を後押し
西郷の努力で戦闘を行わずに終戦したものの、幕府内には「長州の処置が甘すぎる」という不満を抱く勢力も少なくなかった。再度の出陣を求める声は大きくなり、遂に慶応元年(1865)5月、将軍徳川家茂(いえもち)は大軍を率いて西上。閏5月22日に京都入り、幕府と長州は開戦寸前となっていた。
その頃、西郷は龍馬を伴い鹿児島に帰っていた。6月、龍馬の同志である中岡慎太郎が鹿児島入りし、西郷と長州の桂小五郎(後の木戸孝允)が下関で会う段取りをまとめた。ところが西郷は桂をすっぽかし、下関を素通りして京都へ向かってしまったのである。これに桂は激怒する。
「幕府軍の西上を知り、西郷としてはまず長州への攻撃を避ける術はないかと考え上京した。長州を思っての行動というのが、西郷の真意だったのでしょう」。
これで薩長が手を結ぶのは流れたかに見えた。しかし西郷は大久保利通に薩摩が長州再征に協力しないように指示。さらに長州が欲している武器や艦船を薩摩名義で購入。長州からは兵糧米を購入するなど、薩長和親に努めた。
努力が実り、薩長代表は京都の薩摩藩家老小松帯刀(たてわき)の寓居で会談し、慶応2年(1866)1月21日、両藩は同盟締結に合意。ただこの時、正式な合意文書は存在しておらず、唯一のものが桂の記憶に基づく六カ条が書かれた龍馬への書状と、それに対する龍馬の裏書きだけだ。それでも薩摩藩は約束を忠実に実行した。そこには西郷の律儀な性格が大きく影響していることは疑う余地がない。
- 1
- 2